想定外の受診患者

数週間前のことです。朝9時過ぎ、私が院長室に入ってカバンを置くか置かないかの時間に電話が鳴りました。

「おはようございます、清水歯科です」
「今日は診療してますか?」
「ハイ、しておりますけど」
「痛い歯があるので診てもらいたいんだけど」
「かしこまりました。ただ本日は予約がふさがっておりますので、
 すぐには拝見できず、少しお待ち頂く、、、
(と言いながら受付に走り、予約ノートを開く)
 あ、10時15分だったら少しだけお時間がとれるかもしれません」
「いや、ここからそちらまでは、2時間かかるんだ、だから、10時15分は無理。
 とにかく、今から行くから」
「あ、ハイ、では少しお待ち頂くことをご了承ください。それで、患者さんの
 お名前は、、、」
「いや、とにかく行くから」
「いえ、一応お名前を伺って、それを予約ノートに書かないと、、、」
「行けばわかるから、じゃあ、お願いします。」
ガチャン(だったか、今の電話はガチャンとは言わないか?)、、
電話は切れました。
「行けば分かるって、、、、、」
でも、その声には実は聞き覚えがあり、
私の中にはある人物の名前と顔が浮かびました。
でも、それはすぐさま打ち消されました。「まさかなあ」
というのも、その人は、私の実家のある相模原市でも、
かなり山梨県寄りの場所に住んでいたはずだったからです。

朝10時、午前中の診療が始まりました。いつものように痛みのある患者さん、
定期健診にいらしてくださる患者さん(当院の定期健診の患者さんは本当に
真面目で、定期健診のお知らせをお送りしたほとんどの方が来院してください
ます。ご自分の口腔内を健康に保つことを大切に考えておられるこうした患者
さんには、我々も襟を正して接しないといけないと思っています)の診察と
会話をしているうちに、11時半ころでしたか受付のスタッフが
「急患の患者さんがいらっしゃいました」
と伝えに来ました。
いつもなら、「はい」で終わりなのですが、私はそのスタッフに
「お名前はなんという方?」と聞きました。
スタッフは私にその急患のカルテを見せました。
、、、、、、、
「あ、やっぱりそうか!そうだと思ったんだよ!」

果たしてその“行けばわかる”方は、まさしく“行けば分かる”方、
私の県立相模原高等学校2年3年時の担任のE先生でした。
私の結婚式に出席していただいて以来お会いしていなかったので、
四半世紀ぶりの再会でした。

E先生は英語のリーダーが担当でした。
相模原高等学校に入学した時、「英語にはEというとても恐い先生が
いて、ものすごくしごかれる」という噂を耳にし、入学式の時にも
「ほら、あれが噂のE(敬称なし、生意気ざかりの高校生ですから)だよ」
と仲間たちと指さして!ました。
ラッキーなことに(笑)、私の高1の時の担任は別な英語(リーダー)の
K先生で、8クラスあるうちの、たしか3クラスがK先生、あとの5クラスが
E先生だった気がします。
他のクラスの友達が
「俺、今日、早くもEから“粗品”もらっちゃって、レポート●十枚だよ」
「ははは、俺今日はセーフ。“内祝”もらった」としゃべっているのを聞き、
粗品?内祝い?なんだそれ?でもまあ、こっちは楽でいいや、、、と
感じてました。

ところが、学年が上がり、理系クラス3クラス、文系クラス5クラスに
分かれた高2の時、なんということかE先生は私のクラス担任になりました。
必ずしも持ち上がりでなかったはずの高3も!
当然、リーダーはE先生です。

「粗品」「内祝」というE先生考案の特殊な「飴と鞭」システムについての
詳細は忘れてしまいましたが、とにかくE先生は授業中教壇にはあまりおらず、
生徒の机と机の間を歩きながら授業されてました。
そしてフルーツバスケットで音楽が止まる瞬間のように、突然、
ご自身の横にいた生徒の机を叩き「おい、●●を言ってみろ」と問題を
出すのです。そこで答えられないと「粗品」をいただくことになり、
「粗品」をいただいた生徒は、ある課題をやって放課後にE先生のメインの
居場所である図書室前の廊下に並ぶことになります。
図書室前廊下には毎日長蛇の列、、、、。
その突然の質問の大半は、毎回の授業の最後に配られる、次の授業までの宿題、
B4ワラ半紙3~4枚にぎっしり印刷された英文から出題され、
それを完全に暗記していないと答えられないものでした。

今考えると、そのおびただしい量の英文を鉄筆で書き、ガリ版で印刷していた
E先生の労力たるや驚くべきもので、しかも毎日「粗品返上」のために並ぶ、
何十名もの生徒に口頭試問するエネルギーも半端ではなかったと、改めて
E先生の教育への情熱に感心します。
ただ、その時はとにかく英語の授業中にE先生が横に立たれた時の緊張感、
他の科目もあるのに、毎日のように長文を暗記させられ、粗品をもらって
しまったらそれを返上するためにしなければならない課題の多さに、正直頭に
くることもありました。「数学だって物理だってやらなきゃいけないのに!」と。

でも、きっと皆さんもご経験があると思いますが、そんな厳しい先生なのに、
生徒には慕われていたんです。それは、「粗品」と「内祝」の渦中にあった
ガキどもにもE先生の思いが(うすうすは)理解でき、心の底では(これは
将来感謝するべき対象になるかもしれない)と気づいていたからではないかと
思います。
私が一時期、アマチュアバンドでラジオに出ていたりした頃、
ちょこっと(ほんのちょこっとですよ)成績が下がった時、
「ギターばっか、やってんじゃねえ、馬鹿!」と叱られたのが懐かしいです。

そんな先生がなぜ、2時間もかけて私のクリニックに来院されたのか、、、
私の同級生には私以外にもうひとり歯科医師になった友人Y君がいます。
神奈川県歯科医師会の会報などで彼が相模原歯科医師会の役職について
いるのを偶然目にしたりすると「おお、あいつも偉くなったなあ」などと
感じることがあります。
そのY君のクリニックにE先生は通っていたのですが、
その日の朝、歯が痛くて、Y歯科クリニックに行ったところ
臨時休診だったそうで、
それで「たしか、清水が横浜で歯医者をやっていたはずだ」と思い立ち、
恐らくは電話番号帳で“あたりをつけて”電話をされたようです。
ですから、私が最初に電話に出た時には、本当に教え子の“清水”かどうか
分からなかった、、、、でも、何か私が喋った言葉のイントネーションで
きっと“清水”に違いない、と感じたそうです。
でも、そのあと、実際に私のクリニックにいらした際には、受付のスタッフに
「こちらの先生は、これこれこういう名前の方ですか?」と訊ねられた
そうですから、確信というほどでもなかったのでしょう。
横浜には私が知っているだけで、4軒の清水歯科医院がありますから。

ま、そんなこんなで四半世紀ぶりの再会とまさかの歯科治療をさせていただき、
昼休みの短い時間でしたが、色々と積もる話をしました。
「ここから、東神奈川にはどうやって行くんだ」と訊かれるので、
目の前のバス停からであることをお伝えすると、
「同級生のM、覚えているか?あいつが整形外科を川崎で開業しているんで、
これから診てもらいにいくんだ」とおっしゃり、国立大の医学部を卒業した
優秀なM君のことをちょこっと話され、帰られました。
お土産に、3年前に「歯界展望」という歯科専門誌に一年間連載した
エッセイ「ロック歯科綺譚」を差し上げました。
私が、ここまで通院されるのは大変だから、あとはY君にやってもらったら
いかがですかと申し上げたら、「いや、この歯は清水にやってもらうよ。
どうせ俺は暇なんだから」ということで、4回かけて治療し、最後の日には、
ガソリンスタンド近くの(皆さんご存知の)ドトールコーヒーで
昼食を(こんな安いものでワリイなあ、とおっしゃりながら)ごちそうに
なりました。
「清水の名刺に書いてあった歯科心身医学って、あれ何?」から始まり、、、
「連載読んだけど、お前、文章うまいなあ」と珍しく褒めてくださいました。

私も55歳になり、日々記憶力に自信がなくなります。
ちょっと前に読んだ論文に書いてあった知識も、「あれ?あのデータは
どうなっていたんだっけ?」と、文献をもう一度開く有様です。
でも、歯科大の時には同級生から
「清水ってさあ、一度読むとみんな覚えちゃうんだね」と感心されました。
(自慢ではありません、今の私との悲しい比較です)
きっとその若き日の記憶力はE先生のあの英文プリントと「粗品」によって
もたらされたのだろうと思います。

「清水の診療室は、明るいなあ、患者さんもたくさんきているようで、
 よかったなあ」と言ってくださるE先生と話しているうちに、
ひとつの思い出がまた甦りました。

歯科大1年の時、髪を伸ばしてロックバンドに勤しんでいた私は、
相模原高校近くの電信柱に、自分たちが開くアマチュアバンドの
コンサートポスターを(もちろん無断で)張っていたのです。
「おい、お前、ナニしてるんだ!」
 その声、それはE先生のものでした。

「なんだ、清水か。髪の毛、伸びたなあ。それでお前、ナニやってんだ」
「いや、あのう、コンサートのポスターを、、、、」

ということで、相模原高校を卒業して一年もしないうちに、
私はかつて「粗品返上」のために通った図書室で説教をされ、
あろうことかE先生の受け持ちのクラスに連れて行かれ、
「こいつは、ものすごく努力家なんだ。でも、今はこんなに髪を伸ばして」
と、あんまりな紹介をされ、なぜか(音楽室に置いてあったのを
急遽もってきたのか?)ギターを弾かされたのでした。

白楽には、これまた偶然お会いして知ったのですが、E先生と仲の良かった
(と、生徒には感じられた)現国のM先生が住まわれており、そのことをE先生に
伝えると、「俺は電話に縛られる生活が嫌で電話を持っていないから、
M先生に会ったら、清水と三人で会いたいので、このハガキに何月何日何時に
どこどこで、と書いて投函してくれ。そうしたら、その時間、その場所に
行くから」とご住所を書いたハガキをいただきました。
大変失礼ながら、「やっぱりE先生は、チョー個性的」と感じました。

さてさて、もう11月も半ば、例年この時期になると「お正月を綺麗な歯で
すごしたい」「おせち料理を美味しく食べたい」という患者さんが
増えてきます。入れ歯を作るには、ある程度の期間が必要です。
もし、義歯を作りたいという患者さんが、おられたら早めの来院をお薦めいたします。

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コメント: 2
  • #1

    元県相生 (水曜日, 06 3月 2013 14:43)

    はじめまして♪
    県相で1学年後輩だった者です。高校時代のお話を書かれていたので懐かしくなり、突然ですがコメントさせていただきます。
    私は学年が違うせいか、E先生がどなたか分からないのですが、そんな厳しくも熱心な先生がいらしたんですね。私が一番お世話になったのは、ヒル○○と呼ばれていたF先生でしたが…
    高校生頃、バンドコンテストでグランプリを取った清水さんは、後輩の中でも超有名人でした。優勝後の凱旋的なコンサートだったのか、音楽室のような所で激しくギターを演奏されていたお姿が、(記憶力の低下した頭にも…)鮮明に蘇ってきます。友達から「あの先輩はすごく頭がいいんだって。」と聞き、「何でもできる、私たちとは違う世界の手の届かない方なんだ。」と思ったのを覚えています。
    今日、何故か急にKENSOのことが気になって検索し、こちらにたどり着いた次第です。

    清水さんと同じ時期に高校生活を過ごせたことを、誇りに思っております。
    これからもお体に気を付けて益々ご活躍ください。

  • #2

    清水歯科院長/清水 (金曜日, 08 3月 2013 18:56)

    いったいこのブログがどっちのブログなのか一瞬混乱するコメント、ありがとうございます。約24年間守り続けた秘密が「アドマチック天国」で白日の下にさらされてしまったことを痛いほど感じています。そうですか、相模原高校でひとつ下の学年なのですね。ということは、当時のボーカリストT君と同級生ですね。あなたがご覧になった「音楽室で激しくギターを演奏」し、あげくのはてに上履きをすっ飛ばしたコンサートは、おそらくラジオのコンテストに出演する直前、私が高校二年の秋の文化祭だと思います。「何でもできる、私たちとは違う手の届かない方」と推測され、バンドコンテストで優勝した私は、体育の時間には、「清水先輩は何でもできる」と期待した女子生徒たちのあからさまな失望の視線と大きなため息、いや失笑を背中に感じていました。今は昔の話です。これ以上の音楽の話題はバンドのHPで(笑)。ここはあくまで歯科医/清水の活動の場なのです。